昭和52年03月27日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
今朝御祈念中に、もういっぱい雪が降っておって、そこにあの洞穴がある。その洞穴の中を誰かがリュック担いで入って行く。行けども行けどもうん洞穴である。真っ暗である。してとうとういきずまって、向こうにでるところがない。と言う様な情景を私、御心眼に頂きました。「どういうことであろうか。」と御神意をお伺いさせて頂きましたら、「こういう修行をすれば、必ずおかげになる。お徳になる。と。はっきり分かっておる修行をしろ」ということでした。
「この修行をすれば、必ずおかげが受けれられる。こういう修行をすりゃあ、必ずお徳が受けられる。」。それを「ただ、修行さえすれば良い。」勿論「信心に修行はつきもの」と仰るからね、いつまでも何時までも貧乏の修行をしたり、いつまでも何時までも家庭不和の人間関係の修行をしたり、いつまでも病院が絶えないと言った様な修行をしたり、勿論それは修行ですから、そういう修行を受けて立たせてもらう自然、成り行きが、いうならば、求めてござる修行ですから。
それを修行と受けるということは、有難いことです。けれどもそういう例えば、難儀から、苦労から「一時でも早く抜け出そう」と思うて、色々まぁ様々な工夫をする人が、工夫をして修行をする人があります。そのまぁ一番つまらんのが表行です。水をかぶったり断食をしたり。まぁありとあらゆる修行をして、それがおかげが頂く頂け無いほど、分からん、分からん修行をはっきり分からない修行を、まぁやってまぁどうなっとせにゃおれないというので、まぁするのです。
私共も過去においては、それ、そおいう修行もさせて頂きました。けれどもそういう修行が、いかにつまらないかということが分かって、表行を全廃させてもろうて、そして私が二十数年間辿って来た修行。いうならば「成り行きを大事に尊ばせて頂く、大事に頂いていくという修行。すべての事柄に御の字をつけて頂いていこう。」という。そういう例えば、だんだん修行をさせて頂くようになりましたら、「ははぁこれが真の信心だな。これが真の信心の修行だな。」というふうに、はっきり分かってきた。
そしていわば実証的に、そのおかげを顕して、みなさんにも聞いてもらったり、見てもらいながら、今日まで信心を進めてきて、「いよいよこういう信心をしていくならば、絶対だ。」と言われる、なら合楽理念に到達したわけです。だから合楽理念を皆さんが、本当に分からせてもろうてね、その一言一言に取り組ませて頂くなら、もう絶対の道である。絶対おかげが受けられる。
お徳も受けられる。日勝り、月勝り、年勝りのおかげも勿論の事だけれども、必ず代勝りのおかげになっていくと、まぁ私がね、証を立てながら皆さんに、「絶対」という言葉を使いながら、皆さんに聞いて頂いておる。こんなにはっきりとした修行があるじゃないか。しかもその修行に取り組む、本気で取り組んだら誰でも出来ること。みやすう楽しゅう、しかも愉快に出来れる修行なんだ。もう見とうしがはっきりしてる。雪の洞穴の中に、穴ん中に入っていくような修行じゃない。
うれしゅう楽しゅう有難う、しかも愉快にですからこんな、私今日のしたら今日の御理解が、この六十九節ですね。「信心はみやすいものじゃが。」と仰るが、自分でむずかしゅうして、そりゃあ断食してみたりね、「何々の行は」と言う様な、行をしてみたり「自分でむずかしゅうする」とは、そういうことである。教祖様がはっきりと示しておられる「これだ」とね。一番肝心なのは「もう天地日月の心になることだ」と例えば教えておられるのですから、そのことに本気で取り組むということ。
その取り組み、取り組み方がですね、「はぁこれが天の心だ。地の心だ。これが日月の心だなぁ。」と、合点がいき、分からせて頂くように解き明かしてあるのが合楽理念です。「合楽理念が、間違いない」ということは、先日からなんか研修会の時でしたか。北野の秋山さんが、「合楽理念と言われる、その理念ということは、大体どういうことであろうか。」と、思うて字引を引いてみられた。そしたらこういうふうに書いてあった。みなさんのおかげの泉に、皆さんも書いておいて下さい。
大事なこと。これも大体一緒に印刷してもらうはずだったところが、印刷屋が忘れておったんです。このおかげの泉のね、合楽理念特集号というのが、皆さん手元にあるでしょう。あれはねもうこれをいつも、いつもこれを読んでそれこそ合楽理念をマスターしなきゃぁならんから、あの別にとじて皆さん。おかげの泉は。一緒にとじりこんだら分からんごとなるけんでん、そこにしるしを入れとって下さい。
もうそしてこれにスーッと、そんなら赤鉛筆なら赤鉛筆でなりね、もう自分の行じたところを、研究した所を書き込んでいかれるといいです。もうひとつ別冊を作られて。そのくらいにして、勉強するがたのものがあるわけです。私はこのことを聞かせて頂いて、確かに、私が二十数年間いうならば私の、いうならば「理性の判断から得た、最高の考えで、全経験を統制する」私が、二十数年間ですよ、いうならば、足したならば、引いてみる。引いたならば、足してみる。
かけたら割ってみる。割ったらかけてみる、というようにもうこれは、本当か本当でないかあっておるか、あってないかおです、そういう神経を使いながら、二十数年間辿らせてきたのですから、私が「絶対この答は間違ってないよ。」というふうに、いうわけなんです。「理念とは、理性の判断から得た、最高の考えで、全経験を統制する。」ね。それが、今合楽で言われておる、合楽理念なんです。
私の二十数年間の信心を基にして、土台にしてしかもそれを、「あっておるか、あってないか。」ということを確かめながら、今日まで来た。私もなかなかどっちかというと、理性に欠げておるほうでね、まぁ感情型で、私自身も苦しんできた。情がいうなら強すぎる生き方です。いうなら掉させば流されるほうのくちなんです、そこんところを信心でしっかりブレーキをかけて、「親先生という人は冷たい人だ。」と場合には言われるように、だんだんとおかげを頂いてきたんです。
そういう努力精進をさせて頂きながらの、いうならば判断です。そこから得た最高の考え方「もう、合楽理念に徹する以外にないんだ」と、全経験を通して、ここにひとつの統制を図ろうとしておるわけなんです。「理性とは、物事に筋道を立てて考え、正しく判断する能力だ。」とあります。「理性とは、物事に筋道を立てる」。合楽理念には筋道が立ってでしょう。
昨日若先生が、その「お伺いしたいことがある。」というけ、「どういうことですか。」ち私が言ったら、「合楽理念について、結局煎じ詰めると、先生一切が神愛ということになりますね。」とこういうわけなんです。「うんそうだよ。」と。「一切が神愛だと。」こう。「だから、一切が神愛であるということは、誰でも知っとるんだと。自然界には、一切を丸うせずにはおかんという働きが、もう億年かかっても、もう丸うせにゃぁおかんという働きがあると言った様なこと。
そういう働きが、いうなら、「この天地には充満しておるんだ。」と言った様な事やらは、少し書物でも読んだ人は、信心がなかっても、知っおることだ。分かっておることだと。そのことを物理か物理の学者が、それと親先生と言われることと、同じ様な事を、先日テレビ言うとりました。」と。だからね宗教ではなく、信心ではなくても物理なら、物理学から言うても、「自然界には、そういう働きがあるんだ。」ということが分かってる。誰でも知っていること。
サンフランシスコの福田先生が、「絶対信」ということを言われた。先生のいうなら、専売特許のような言葉であった。絶対。もう神様を絶対信じる。もう世の中には、悪魔もいなければ、サタンもない。あるものは神愛だけだ。と確信することだ。絶対信だから、福田先生あたりでもそれを知り、いや金光様の先生でも、それほどしの人なら、みんな知っているわけです。「一切が神愛」。けれども一切を神愛として、受けられないところに問題があるわけなんです。
自然界には、「一切を丸うせにゃぁおかん、丸うせにゃぁおかん」という働きがあっとるんだけれども、反対に角にしたり、三角にしたりしていきようじゃぁないか。腹の立つような問題が起ってきて、「はぁ、これによって角が取れるんだ。」と頂きゃぁよいのに、「そげなことがあるか。」ち言うてからに、かえってこう頑固になっていきよるというようなことでは、おかげにならんということです。
だからその「若先生あんたが言う、確かに合楽理念は、煎じ詰めりゃ『一切が神愛』ということだけれども、合楽理念はそうではないんだ。」と「『一切が神愛だ』だと分からせる、その過程が克明に、私二十何年間の体験から教えてあるんだ。」とね。一切が神愛だと、しかも、なら、誰も、それに便乗できる。誰でも、やろうと思えば、やれれるような手立てを持ってです、私がそれこそ嬉しゅう楽しゅう、有難う場合には愉快な心で、そのことを行じてきた事実がね、いわゆる理性とは物事に筋道を立てて考え、正しく判断する能力というものが、二十数年間の間に出来てきたということ。
それを今合楽理念というて、皆さんに聞いて頂いておるわけなんですね。「あっそんなら成り行きを大事にすることたい。尊ぶことたい。」。そうなんです。一切のことに御の字をつけていうことです。そして神様が生き生きとしてみえるように、おたくの神様が。本気で、みなさん大祓い信行に取り組まなきゃぁなりませんよと。したりせじゃったりじゃぁ絶対にでけん。おかげは頂からますよ。信行しなくっても。おかげを頂く手立てを色々に分かってくれば、おかげを頂けます。
お取次ぎを頂いて、お願いして、おかげを頂く。けれどもね、大祓い信行というのは、どこまでもです、お道の信心をさせて頂くほどしの者ならば、こりゃぁ、もうお道の信者としての当然のこととしてね、天地の親神様、金光大神を通して、神様にご神飯をお供えするような心持。神様がままになられる。お宅の神様が栄養失調になってござる。だから、どうですか、皆さんが本気で、大祓い信行をしておられる家の家庭の神様は、もうそれこそもう、バチバチおいさみがあるごとなったでしょうが。
昨日も西岡先生が言っておられましたが、その合楽理念のことを話しておったら、あのポットのお湯に、「ガァー」ちいうて、おいさみがついたち。「ほーれ見てごらん。今言うたつが、神様が聞いて下さっておることが分かろうが。」ちいうて話したというて、昨日、言うておられます。お宅の神様の、いわば周辺にです、もう生き生きとした神様が、栄養失調から、いうならもう、元気がモリモリしよんなさる。おかげも受けられるが、お気付けも激しい。
そういう宅の神様にさせて頂かなければ、合楽理念が根本の所から崩れるです。生きた心でなからなければ。いやそういう生きた心、生きた神様を頂かなければです、合楽理念が難しいものになってくるです。心が生き生きとしてござるね。「今日はちょっと御無礼しようか。」というたら「カチッ」とおいさみがあった。ヒャッと思った。縮まるほどの思いで「はぁへこたれちゃぁならん。」というてなら心を神様に向けれる。
合楽これはもう、二年前から、二年前のお正月から言っておるようにね、もうこの大祓い信行はもう絶対。合楽でご信心を頂いておる人たちならばね。大祓い信行の徹底をしなければいけんです。五十巻も百巻も、なんてんいったっちゃ長続きせん。せめて五巻。せめて十巻。もうそれはね、ならそれを実行しておる人たちがです、このごろ秋山さんが言っておられましたように、「大祓い信行を、あんた一巻どんしてから。少なくとも五巻ぐらいはせな」ちいうて、秋永先生から言われた。
「それからあくる日から、五巻づつあげるようになったら、主人も付いて来る様になり、そしてもう五巻ではやめれんように有難うなってくる。こげん有難いことば、どうして、秋永先生が言よんなさったのに、言うことを聞かじゃっただろうか。」とこう言うわけ。皆さんもそげな人が、沢山あるでしょう。お宅の神様が生き生きとして、間違ごうたら、「カッチ」とおいさみなら、おいさみでも下さるくらいなね、働きの頂けれる神様にしなければ、こちらの心も生きてこないです。
ただ参って願いしさえすればよか。そして、なんかお願いせんならん時だけには、尻に火がついたように、いろんな修行までする。そげなぁいらん修行をしちゃならん。もう合楽では。そういう人たちが、教団の信者ん中には沢山おるだろう。おかげ頂きたいばっかりに。さぁ水をかぶったり、断食をしたりあげんせん修行、こげんせん修行と言うてね、それこそ雪の洞穴に入って行くように、冷たい暗い修行をしておる人があるだろうと思う。だからそういう人たちに目覚めさせなにゃぁいけん。
それには合楽の皆さんが、本気で表行というものが、こんなにもつまらんものであって、本当の事はもう心行ひとつにかける事なんだ。まぁ表行とまではじゃぁないけれども、まぁ行というなら大祓い信行にかける事なんだ。それは神様も生き生きてみえる、こちらの心も生き生きしてくる。その生き生きした心で、合楽理念を勉強するのですから、生き生きとしてそれが楽しゅう嬉しゅう、有難うしかも愉快に行じられる。
そこに始めて「信心はみやすいものじゃが。」と言う事になるじゃぁないでしょうか。みやすいものというだけじゃぁなくて、信心は愈々楽しいもの、有難いもの「合楽理念は助かりの理念」。昨日も申しました様にね。もう助かりたいと思うのなら、合楽理念を本当の行者にならなきゃだめだ。行者というとなんか大変きついごたあるけれども、そうじゃぁない。その気になりゃぁ楽しゅう出来るんだ。有難う出来れるんだ。
昨日研修の時に、うちの修行生の先生方に話したことでしたけどもね。「今合楽ではね、表行が全廃になったから、あなた方が気をちょっと抜くと、もうなんも出来んごとなるよ。もうこげなもう本当に合楽の信心は、ちょっと油断するともう本当につまらん信心になってしまうんです。表行なっとしよる時には、はぁ御無礼した。一時ばっかり水なっとんかかろうか。一週間いっちょ断食でんしようか。というとシャンと、いわばなりよった。ちょっとシャンとなることだけは。
けどそげなことで、シャンとなったぶんじゃぁいかん。ひとつ朝から晩まで心に、かけ続けさせてもらう心行。成そうと思えば子供でも成せるような、簡単なことを疎かにしたんでは、そこからおかげが漏るんだ。今こそ信心のいうなら合楽理念の基礎を、今あんた達が作っておる時なんだから。この心行を本気で心にかけ続けて、そして大祓い信行の徹底にきする修行を、ここにしようはなかじゃんの、今あんたどんには。」というて昨日話したことでしたけれども。これは修行生だけのことじゃぁない。
合楽にご縁を頂いておる、すべての人たちが「もう合楽理念ちゃぁもうあんた一切が神愛じゃから。もうそげん頂きさえすりゃあよかろうもん。」と言うていっちょん頂かんなら、なあぁにんならん。合楽理念とは本当に一切が神愛だと、もう実感的にですもうキャッシュで、分からせるのです。ですから「成程一切が神愛だなぁ」と後で分かるのです。そのいうならば、例えばね「理念とは。理性とは。」引で引くと、こう書いてあるということを今日聞いて頂いたが、これは私が二十七、八年間の間ですね。
私もいうならば、この理よりも情の方が強い男ですから、もうこれには情のたかい多情な方ですから、もうそりゃぁ大変苦労しましたけど、これを抑えていくこれにブレーキをかけていくということには。本当に。だから「親先生ちゃぁ冷たい人だなぁ」と人から時々、言われる時にはとても嬉しいです。おかげで情に溺れんで済む様になったわけです。そういうなら、自分という者を治めながらです、そしてならいよいよ成り行きを大切にさせて頂く、すべてのことに御の字をつけていく。
そしてそれがあっているか、あっていないか、ということを引いたら足してみる。足したらかけてみる。足したら、引いてみるというようにです、もう、絶対の答を出していきながらの、二十数年間を、皆さんが、ご承知なのですから、私が言うておることが絶対。だから修行するなら、そのことに取り組んだ修行でなからなければ、あなたがた、「いっちょこげな修行しよう。あげな修行しよう。」ぐらいなことでは、つまらんというのです。それで当たる場合もあるかもしれません。
けれどもね、ある青年教師の先生が言ったということを、この頃の「教務所だより」に出ておりましたことですが、聞いて頂きましたがね。「自分が日日こうやって一生懸命、信心修行しよるが果たして、ほんなこと行きよるじゃろうかと思うてと不安になる。」ち言うた。だから不安になるような修行じゃぁ、本当に心もとない。それは誰も「こんなに絶対のお道があるぞ。こんなに間違えないのない修行があるぞ。」ということを誰も、まだ教団で教える人がなかったからです、かつてね。
「これがもう絶対の助かりの理念だ。」と、その教える人がなかったからです。だから時々不安になってくる。不安になるのじゃぁない。もうますます自分の心が明るう、嬉しゅう愉快になってくる修行が、合楽理念の行者になることです。行者というとなんかこう深刻にですけれども、私は金光様の御信者というものは、金光大神の教えられた、教えの行者になることだと思うです。それの生粋のところをなら合楽では、合楽理念とこう言っておるわけなんです。
だからすべての事柄の中に合楽理念が入ってくる。同時にならそういう、合楽理念を覚えただけじゃぁいかんから、なら生き生きとした、有難い心を頂くことのために、その大祓い信行の徹底をしなさい。そこには神様が生き生きとしてみえる。いちいちおいさみを持ってそのいうならば、その働きかけて下さる働きだけではなくて、自分の心の中の神様も生き生きとしてこれるんだ。そこに私しゃぁ「本当の修行なら修行に取り組んでやるぞ」と思いも、子供でもなせれるような行ですけれども。
本気にその気にならなければ、こげんして「お前そりゃぁおかげだけは、頂くけんで。」というぐらいのことじゃぁ、いつまで経っても、日勝り、月勝り、年勝りのおかげは頂いても、代勝りのおかげにはならん。代勝りというのはね、いよいよ家繁盛、子孫繁盛のおかげのことです。家繁盛のおかげは、ただ金光様の信心しよりゃぁ、おかげは頂くかもしれんけれども、子孫繁盛のおかげには、お徳を受けなければ、子孫繁盛ということにはなってこないって。
いうなら子孫繁盛の道であり、代勝りのおかげの頂ける、私は絶対理念が、合楽理念だと。しかも私がこの様に間違いのない働きを顕しながら、皆さんに聞いて頂いておるのですから。そしてなら今日の御理解を、もういっぺん頂いてみるとね「信心はみやすいものじゃが。」というて「時々参りゃぁよか。おかげ頂くけんでん。」ち言う位なら、みやすかろうばってん、そげな信心じゃないっちこと。信心です。信じる心を愈々確かなものにしていく信心修行がです、合楽理念に基づくとみやすい有難い、楽しいものになるという事。そこからもうほんなこと。
十年も経たんうちに、わが心が拝みたいような心が生まれてくるでしょうよ。そういう信心をさせて頂きながら、「その日その日が立ち行けば」というのじゃぁなかいかんのです。そういう、「いつかおかげ頂くじゃぁろう。」ちいうごたることじゃぁでけんと。そういう修行をさせて頂きながら、「その日その日のおかげを受けてゆけば、立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」ということになる「合楽理念は、みやすう信心修行がでけることを説いてある理念だと」いうことをもうね。
何回も繰り返し申しておりますが、もういっぺんひとつ頂きなおして、私共がそれこそリュックを担いで冬の山に登って、しかもその洞穴が向こうへ抜けるかどうかも分からんごたある、真っ暗い穴の中に入っていくような修行を全廃してね、いよいよ絶対の修行、絶対におかげが受けられる、お徳が受けられるという道が、ここに明示されたのですから、それを私共が行の上に現していくということが、「みやすい信心だ」ということを、今日は、聞いて頂いたわけですね。
どうぞ。